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はまねこ&チー MGぐるぐる日記

2歳目前に小児MGを発症した娘と4歳から吃音の息子、その家族の日々です

最近ずっと考えていること 〜いじめたり、いじめられたりについて〜

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△なかなかしぶとい左目の下垂です。が、可愛いチーに変わりはありません^_^。

 

最近ずっと考えていること。

我が家の長女は12歳…多感な時期を生きていて、彼女と暮らすことで自分の小さな頃や多感な時期のことを思い出したり考えたりすることが増えています。それもあってか、学級崩壊やいじめ問題についても、多分以前よりも私自身のアンテナが立って、ぐるぐると考えることが増えました。

 

自分も昔、子ども時代を生きて来て、小さいからって天使な訳じゃないし、教室で楽しく過ごすのが難しい子がいるのも知っています(実際、私がそうでした…💦。幼稚園の頃、毎朝上靴にパンパンに土が入っていた。それを払い落とす所からが園の一日のスタートT_T)。子どもの日常って大人が思うほど単純じゃありません。

 

でも今は、大人に足を突っ込んだ年齢になり(突っ込んだどころか、もう熟年…笑)、大人だからって正しい訳でもないし、まだまだ全部が途中だということも知ってしまいました。 子どもだけじゃない…職場の人間関係に悩む人だっていますしね。

 

こういった問題を考える時、受ける側にスポットが当たりがちですが、やってしまう側にもっと真剣に向き合わなくちゃならないんじゃないかなーと思っていて。

 

胸に抱いた、黒いモヤモヤのつまったボール(ストレスという便利な言葉がありますね、それがつまっているのかもしれません…)をどうしていいか分からない時。ぶつけていい相手を、そのちょうどいい理由を無意識に探していて、だからきっかけは何でもいいのかもしれないなぁ…と。

 

あの子のこういう所が嫌だから、あんな言い方をされたから、何考えてるかわかんないから、という理由らしい理由が見つかる場合もあるし、ムカつくから、調子乗ってるから、キモいから、ウザいから、そういう空気だったから、という漠然としたものも。

 

そして周りは、それをぶつけられる側(つまり意地悪やいじめを受ける方)に向けて、「やられる側が強くなれ」…という理論になりがちです。でもそれって“痛み”に関して感覚を鈍らせろ…と言っているのに等しいし、「ぶつけられる側にも理由があるんじゃない?」…という理論は、その理由をうまく探せたなら、他の誰かを見つけてぶつけてもいい…ってことになりますよね。

 

持ってしまった黒いボールを、皆がぶつけてるのを見て一緒に投げてしまった時、そういう時のチクリと胸を刺した罪悪感こそを拾ってあげないといけないんじゃないかと思います。子どもを信じる…って、「うちの子は優しい子なんです。そんなことはしません。やったとしたら誰かにそそのかされたんです」という「自分が信じたい子ども像、又は、間違っていない子育て像」を信じるんじゃなくて、やりかねない、その弱さを持っている…そっちを信じて、黒いボールの中身を一緒に覗き込んであげる方が救われるはずです。

 

子どもって結構残酷だもんね、とか、皆がやってるからつい、とか、あの頃はそうだったよねーとか、ぶつけた側が軽く若気の至りと思おうとしていても、自分が歩いて行く先はその道の上なんです。過去は無かったことには出来ないし、チクリと刺した罪悪感があるなら「どうして?」と自分に問うべきじゃないかしら。

 

30人クラス全員が関わったいじめの問題なら、罪の意識を1/29にしてもいい訳じゃないと思うし、29人がそれぞれ自分に問うてみるべきです。傍観者を決め込んでいた人は、傍観者という立場を「選んで」そうしたんだと見つめるべきだし、そこで「嫌だったけど、無理やり選ばされた」としか思えないなら、選ばされる所からどうしたら抜け出せるか真剣に考えないとなりませんよね。

 

例えば、我が家の息子には吃音があって、からかいにより3日間の短い登校拒否をしたことがあります。理由は吃音ですから、ぶつけられる側の息子にその理由があると言えるでしょう。だって「言葉が詰まって変なんだもん。本当のことだもん」ですからね!

 

そしてチーは再発すると瞼の下垂と斜視の症状が出るので、顔を見れば違和感があり「皆に見られて嫌だな」と言います。先日も年中の男の子に「わ!この子だー!片目が開いてない子!」と大きな声で言われて恥ずかしかった…と漏らしていました。まだ「いじめ」とは言えないし、相手に悪意はないかもしれない…それに確かに瞼は下垂していて斜視も出ています。言う側のお得意の理論「ザ・本当のこと」です…^^;。

 

だからって、我が家の子ども達はからかいに慣れて負けない心を持つべきでしょうか?もちろんそういう考えの方もいらっしゃるでしょう。人の口に扉は立てられませんし…ね。が、私はそうは思っていなくて、その都度傷つくであろうことを「そりゃ嫌だよねぇ、やめて欲しいよなぁ」と共感したいし、やめて欲しいということを相手に理解して欲しいと願います。 

 

ただ、そこで親子揃って「一方的な被害者」の立場で「相手=悪、自分=弱者」になってしまうと、そこから抜け出すのはなかなか難しいかもしれません。相手が分からなくて言ってるなら、分かるように伝えてあげるのも大人の責任なのかなーとも。「いじめ、ダメ!」…とか、「人の嫌がることはやめましょうね。いいですかー、みなさん仲良く!」…とか、そういう道徳的な大人の言葉は、元・子どもとしての経験上、全くハートに届いて来ません。自分なら、そういうことしか言わない大人には、相談したいと思わないんじゃないかなぁ。

 

もし自分の子どもが意地悪やいじめを受けたら、原因を探したり、相手を糾弾したり先生に怒鳴り込むより先に、自分の子どもの頃のことをよく思い出してみるといいかもしれません。黒いボールをぶつけた経験、ぶつけられた経験、どちらかに心当たりはありませんか?その時、自分ならどうして欲しかったかを一生懸命考えるのは、子どもにとって心強いんじゃないかしら。もちろん、親と子どもは違う人だから、違う方法を取って欲しいかもしれません。そこを話し合いながらすり合わせて行けたら、と思います。

 

うちの息子の場合は、大ごとにしたくなさそうでした。ただ、言葉のことをからかわれるのが本当に悲しいということは、ひしひしと伝わって来ました。なので、それを平和的にやめてもらう…という事が第一希望。そのためにどうしよう?と考えました。

 

また、我が子がやってしまった側ならどうでしょう。黒いボールの中身を覗くのは親にとって、すごく勇気のいることかもしれません。ですが、黒いボールを持っていることが悪い訳じゃないんです。誰しも、思うように行かなかったり、人から誤解されて悲しかったり、そういうことはあります。普通に生活しているだけでもモヤッとすることはたくさんあるし、胸に黒いボールを持っているのは当然なんです。ただ、そのボールを弱い相手を見つけてぶつけないで、何か方法が見つかればいいですよね。

 

私は仕事をしている時、仕事上で起こった色々な嫌なことは、早い時間なら川べりに寝転んで捨てて帰る(夕焼けがキレイだったんです)…遅い時間なら、帰宅時間を1時間ほど遅らせて、ドライブしながら行きは大声で文句を言って(口汚くて他の人には聞かせられない…もちろん独り言)帰りは好きな音楽を大音量でかけて帰る…という儀式をしていました(笑)。玄関に結界を張り、黒いものを入れないようにしていたのです。おかげで大家族に当たらずにすんで、結果的に自分も楽でした。

 

もちろんこれが正解ではありません。何でもいいから、そういう、自分を保つ方法をオリジナルで見つけられたら強いんじゃないかしら。ぶつけられる方が強くなれ…じゃなくて、むしろ、強くなるべきなのはぶつけてしまう方だと思います。黒い部分に浸食されずに、どうにか自分で舵を取れるようにならなくちゃ。相手のことは変えられないけど、自分は変われると信じて欲しいです。

 

「最近の子は怖いねぇ、いじめが社会問題だって?」「若い親は何をやってんだ、甘やかすからこういうことになるんだよ」…なーんて声も聞こえて来そうですが、全ては繋がってんだよ!と言いたい(笑)。当然ながら若い親を育てた親にも親がいて、それを育てた社会があるはず。無関係なんて世代はひとつもないのに…ナンセンスですよねー。

 

だって周りを見れば、ネット上で大人(子どもから見たら高校生だって充分大人…笑)だってやってます。芸能人の不倫などのスキャンダルとか、違った思想を持っている政治家とか、自然災害のボランティアや寄付をした芸能人に向かった攻撃もありましたね。

 

自分にとって攻撃に値する人を見つけて、面と向かってはとても言えないような辛辣な言葉を書き込んで笑っています。相手にはぶつけられるような理由があるんだから、やられてもしょうがないでしょ…ってね。

 

ネット上で匿名になったから余計にぶつけやすいかもしれません。ただ、やられる側からすると、匿名のどこから飛んで来たか分からないボールがバシバシ当たるんですよ…それって面と向かって投げられる怖さとは別の怖さがありますよね。言葉は言霊、魂が宿るって本当だと思います。それがテキストに形を変えたって宿るものはありますし、口に出さなくても、誰にもバレなくても、自分の中の大事な何かは損なわれて行くと思います。

 

中傷で思い出すのは、杉良太郎さん。震災後の迅速で豪快かつ丁寧な支援について「売名行為なんじゃないか…という声もありますが」というような、ど失礼な質問をされて、杉良太郎さんがニヤリと笑って放った言葉「そう思うんだったら皆もやったら?(言葉は違うかもしれませんがニュアンスはこんな感じ…)」にはしびれました。

 

強さにユーモアが加わった素敵な受け答えですが、みんなが彼のように痛快な返しは出来ないでしょう。でも、誰かと比べたりしないで、自分が選んで行動したなら、心ない人の評価は「君には分からんだろうなぁ」ってポーンと遠くに放ってしまっていいんじゃないかな。もしやられる側に何かの落ち度があったとしても、尊厳を奪われるような目にあうべきじゃありません。ほんとに大切でわかり合いたい人ならば、きちんと順を追って説明したいですけど、そんな相手ってたくさんはいないでしょ?

 

それに、狭い教室でイケてた人がそのまま素敵な大人になる訳じゃないです。悪口で繋がっていた仲間はとてもバランスが危ういし、本能的にそれを知っているから、不安感からまた攻撃する…の負の連鎖に巻き込まれます。誰かを落として自分が上がっていたら、いつまでも不安感がぬぐえないはず。自分の立ち位置をしっかり見つめられる人、誰かの痛みに寄り添える人、損得じゃない所で物を見る目を持った人が素敵な大人になれるんです。

 

誰であれ、失礼な態度をしても許される相手なんていないです。街で全然知らない相手に接する時にも、自分もそれを忘れずにいたいと思うし、子ども達に大人が見せられる1番の教えじゃないかしら。

過去の息子の登校拒否についてはこちら↓

hamaneko13.hatenablog.com